Mag-log inショッピングモールを出る頃には、すっかり夕方の風が涼しくなっていた。
秋の夕暮れは早い。空はオレンジと群青の境目で、どこか切ない。 駐車場へ向かう道すがら、朱里と嵩の間には──妙な沈黙が続いていた。 さっきの、あの場面。 朱里はまだ、彼の反応が気になって仕方がなかった。「……平田さん、さっきから黙ってますけど」「別に、何も」「“何も”って、顔に“何かある”って書いてますよ」 半分笑いながら言うと、嵩は小さくため息をついた。 そして、ふと足を止める。「……さっきの人。元カレとか?」「え? 違いますって!大学の友達です!」 朱里は思わず声を上げた。 しかし嵩はまだ少し納得していないようで、視線を逸らす。昼休み。社内カフェはいつもより少し騒がしかった。朱里はサラダとスープをトレイに乗せ、端の席に座る。噂は落ち着いたようで落ち着いていない。誰も直接聞いてこない代わりに、空気だけが探ってくる。(……疲れる)スプーンを動かしていると、影が落ちた。「中谷先輩、ここいいですか?」望月瑠奈だった。断る理由はない。断ったら、余計に意味がついてしまう。「どうぞ」瑠奈は向かいに座り、アイスコーヒーのストローをくるくる回す。少しだけ、いつもの勢いがない。「……最近、忙しそうですね」探る声じゃない。ただの前置き。「まあ、色々ね」 朱里は曖昧に返した。数秒の沈黙。そして、瑠奈は顔を上げた。「先輩」その声は、妙に落ち着いていた。「平田さんのこと、どう思ってます?」直球だった。朱里の手が止まる。「……どう、って」逃げ道を探す。でも、瑠奈は畳みかけなかった。代わりに、静かに言う。「私、平田さんに“好き”とは言わな
夕方。朱里は資料を揃えながら、何度目か分からない深呼吸をした。(……今日、静かすぎる)午前中のざわつきが嘘みたいに、午後は誰も転勤の話をしなかった。止んだ、というより──“止められた”感じ。(美鈴だ)理由は聞かなくても分かる。ふと、視線を感じて顔を上げると、嵩がこちらを見ていた。目が合って、すぐに逸らされる。(……何か、あった)確信に近い感覚だった。嵩の表情が、昨日までと少し違う。迷いではなく、覚悟に寄っている。(美鈴、何言ったの)答えは聞かなくてもいい。きっと──自分のために、余計なことを言ってくれた。定時が近づく。「中谷」美鈴の声。「今日、先上がる?」 「私、ちょっと残るから」珍しい言い方だった。まるで、席を外すための理由を作っているみたいで。「……はい」 「じゃあ、お先に失礼します」立ち上がると、嵩も同じタイミングで鞄を手に取った。(やっぱり)エレベーター前。二人きり。沈黙が落ちる。でも、今日は重くなかった。
午後のフロアは、午前中よりも静かだった。噂は一巡し、皆それぞれの仕事に戻ったふりをしている。嵩は資料を確認しながらも、朱里の背中が視界に入るたび、思考が引き戻されていた。(……巻き込んでる)転勤。選択。自分の決断が、彼女の立ち位置まで揺らしている。「平田」低く、はっきりした声。顔を上げると、美鈴が立っていた。「今、五分いい?」業務連絡の顔だった。断る理由はない。◆給湯室人のいない給湯室は、思った以上に静かだった。コーヒーマシンの音だけが、やけに大きい。美鈴はカップを置くと、嵩を見ずに言った。「噂、想定内?」「……ああ」 「遅かれ早かれ、とは思ってた」「そう」それだけ言って、少し間を置く。「朱里、何も言ってないでしょ」疑問ではなく、確認だった。「……言ってない」「それ、助かってる」嵩は、意外そうに美鈴を見る。「庇ってるわけじゃない」 「自分の場所を守ってるだけ」一拍。「で、本題」
朝のフロアは、どこか落ち着きがなかった。 パソコンの起動音、コピー機の駆動音、その隙間に、ひそひそとした声。 朱里が席に着くと、すでに“それ”は空気に混ざっていた。 「……平田さん、異動らしいよ」 「え、転勤?聞いてないけど」 背中側から聞こえてくる声に、朱里の指が一瞬止まる。 (……早い) まだ正式に発表されたわけじゃない。 でも、“噂”はいつも本人より先に走る。 「地方って話もあるらしい」 「えー、急じゃない?」 朱里は、画面を見つめたまま、何も言わなかった。 言えない。 言う立場じゃない。 (私は、まだ何も決めてない) 自分に言い聞かせるように、マウスを握り直す。 「中谷先輩」 背後から、明るすぎる声。 「平田さん、転勤するんですか?」 望月瑠奈だった。 あまりにもストレートで、周囲の空気が一瞬固まる。 「……私は、詳しくは知らない」 朱里は、言葉を選んで答える。 「そうなんですか?」 瑠奈は首を傾げる。 「でも、先輩と平
朝の空気は、少しだけ冷たかった。カーテンを開けると、昨日までと同じ街が広がっている。(……世界は何も変わってない)それが、少しだけ救いだった。朱里は支度をしながら、何度も昨夜の会話を思い出していた。嵩の声。川沿いの灯り。「選ぶのは君だから」という言葉。(選んでないけどね、まだ)駅へ向かう途中、スマホが鳴った。《起きてる?》美鈴だ。《起きてるよ》 《昨日は……聞いた》《だと思った》 《朝、コーヒー奢るから時間ちょうだい》断る理由はなかった。◆社内カフェ出社前の社内カフェは、まだ人が少ない。美鈴はすでに席にいて、朱里の分のカップを置いていた。「ブラックでよかった?」 「……ありがとう」一口飲む。少し苦くて、目が覚める。「で」 美鈴は、前置きなしに言った。「何も決めなかったんでしょ」朱里は、少し驚いてから頷いた。「……決められなかった」 「正直に言うと、逃げたい気持ちもある」美鈴は、眉ひとつ動かさなかった。「うん。正常」即答だった。
玄関の鍵を閉めた瞬間、力が抜けた。「……つかれた」声に出したら、やっと現実に戻ってきた気がした。靴を脱ぎ、鞄を床に置いて、そのままソファに座り込む。部屋は静かだった。テレビもつけず、スマホも触らず、ただ天井を見上げる。(今日、何かを決めなきゃいけなかったんだっけ)そんな問いが浮かんで、すぐに打ち消す。──違う。今日は、決めないって決めた日だ。転勤の話。嵩の気持ち。自分の覚悟。全部が現実味を帯びてきて、気づいたら「答え」を求められる位置に立っていた。でも。(今、無理に決めた答えは) (きっと、私を守らない)立ち上がって、キッチンで水を飲む。コップの中の水が揺れて、少しだけ零れた。拭きながら、ふと思う。──もし今、「一緒に行く」と言ったら。 ──もし今、「待てない」と言ったら。どちらも、後悔しそうだった。「……ずるいよね」誰に言うでもなく、呟く。嵩は、きっと決断を迫られている。それなのに、自分だけ立ち止まって。でも。







